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金平糖のイボの数は決まっている?いつどこで作り始めたの?

   


金平糖はまるでイボのようにゴツゴツした形をしていますよね。正式には、このイボのは「足」と言います。この足は、作っている間に自然とできるのですが、昔は数に決まりがあったのです。そんな、金平糖の歴史と足の数について紹介しますね。
 

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金平糖のイボの数は決まっている?

金平糖は、初めは珍しい砂糖菓子でしたが、次第に洗練されて、足の数までこだわるようになります。現在は、イボイボのある砂糖菓子ですよね。そんな金平糖が広まった時代背景と、足の数の決まりについて紹介しますね。
  

金平糖の製法と足の数の決まりは?

昔は、ケシの実やゴマを核に、白砂糖と麦粉を煎じて、密にしたもの丸めるて、イボイボのついた砂糖の塊を作っていました。現在は、グラニュー糖など、砂糖の粒を元に作られています。
 
この足の数は、天地六合思想(天・地・東・西・南・北)の36という数字が重要で、金平糖の足の数も36本必要だ、と言われるようになりました。
 
そして、幕府の御台所では、約70人の役人が金平糖の足を一つずつ調べて、数が合わないものは弾いて、金平糖として扱われなくなったのです。そうなんです、江戸時代の金平糖の足は36本という決まりがあったのです。
 

江戸には金平糖の専門店があった!?

江戸で金平糖の人気が出たのは、約1804~1830年頃と言われています。この頃の江戸の町には、金平糖の専門店が26軒あって、そのうちの16軒が日本橋周辺に建っていたのです。
 
つまり、江戸時代の金平糖は、庶民の店に並ぶ南蛮の駄菓子の一種。京都などの伝統的な和菓子は、茶道や鑑賞用に重宝される上流菓子だったと考える事が出来ます。
 
 

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金平糖の日本の歴史は?

金平糖は日本の伝統菓子と思われがちですが、じつは海外から伝わったお菓子なのです。それでは、日本に伝来したのはいつ頃、どこから来たのでしょうか?
 

日本伝来はいつ頃?

1549年(天文18年)、ポルトガルのフランシスコ・ザビエルが来日した時、一緒に乗船していた宣教師ルイス・フロイスという人物が、織田信長に贈って喜ばれたのが最初となります。
 
この時、金平糖はギヤマン(ガラス)のフラスコに入れられていて、ルイス・フロイスの書簡には、「瓶に入った金平糖が重宝された」と記述が残っているんです。
 

金平糖はどこに伝わったの?

南蛮菓子は、ポルトガルやスペイン船から長崎に伝わって、まず長崎で金平糖が作られました。次第に、金平糖とその作り方が西へ移って、大坂や京都、そして江戸に伝わると、製法にこだわるだけでは収まらず、金平糖用の桐箱まで作られるようになりました。
 
 

金平糖の語源と由来は?

漢字で金平糖と書きますが、16世紀頃、日本に来たスペインやポルトガルの人達の言葉が元になっています。コンペイトウと呼んでいましたが、他にもコンフィ、コンフェイド、コンフヘイトー、コンペイタウという呼び方もあったと伝わっています。

「スペイン語のコンフェイトス(confeitos)」
「ポルトガル語のコンフェイト(Confeito)」
  
コンフェイトス・コンフェイトの発音から、「金米糖、金餅糖、渾平糖」などの漢字がつけらて、最終的には「金平糖」になりました。因みに、別名は「糖花、小鈴糖」と書くこともあったのです。
 
 

最後に一言

金平糖の足(イボイボ)の数の話から大分それましたが、日本伝来は16世紀頃のヨーロッパから。日本では、南蛮菓子の一つとして珍しがられ、18世紀頃の江戸で、足の数は36と定められ、現在は足の数に決まりはありません。

それでは、足の数を数えたり、色を数えたり、楽しみながら金平糖を食べてくださいね。
 
 
 

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